OUTLINE

沿革

1914(大正3)年 群馬県高崎市大橋町23番地に「八木農機具製作所」を創立。
1924(大正13)年 高崎市鶴見町に移転、組織を変更し、「合資会社八木工業舎」となる。
1956(昭和31)年 本社を高崎市並榎町に移転、機械工場を新設。
1960(昭和35)年 高崎市下小鳥町に第二工場建設。
1961(昭和36)年 株式会社に組織を変更。資本金500万円に増資。
1963(昭和38)年 高崎市下小鳥町に本社を移転。
1965(昭和40)年 資本金1,000万円に増資。
1966(昭和41)年 本社第一工場内に鍛造工場を新設。
1,600トン鍛造プレスラインを1ラインと連続式焼き鈍し炉1基を新設。
資本金3,000万円に増資。
群馬県中小企業合理化モデル工場に指定される。
1968(昭和43)年 高崎市倉賀野町3121番地に新工場を建設、本社工場を移転。
1970(昭和45)年 「八木工業株式会社」に社名変更、資本金4,000万円に増資。
1975(昭和50)年 本社工場に第二鍛造工場を増設。1,600トン、2,500トン鍛造プレス(5号ライン、6号ライン)
2ラインと連続式焼き鈍し炉1基(4号炉)を増設。資本金4,950万円に増資。
1977(昭和52)年 本社工場に1,600トン鍛造プレス(7号ライン)1ラインを増設。資本金5,950万円に増資。
1981(昭和56)年 中小企業庁合理化モデル工場に指定される。
本社工場に1,800トン自動鍛造プレス(9号ライン)1ラインを増設。
1984(昭和59)年 本社工場に3,000トン自動鍛造プレス(10号ライン)1ライン、
熱間多段ホーマー(11号ライン)1ラインとローラーハース型全自動球状化焼き鈍し炉およびショットブラストマシン1基を増設。資本金7,722万円に増資。
1987(昭和62)年 本社社屋(鉄筋2階建1,200㎡)を改築。
1988(昭和63)年 本社工場に1,600トン自動鍛造プレス(12号ライン)1ラインと1,500kwヂーゼル発電機2基を増設。
資本金8,888万円に増資。
1990(平成2)年 本社工場に2,500トン自動鍛造プレス(13号ライン)1ラインを増設。
1991(平成3)年 380トン ビレットシャー1ライン増設と1,600トン鍛造プレス(7号ライン)を更新。
1992(平成4)年 本社工場に1号マシニング・センターを導入。
1993(平成5)年 本社工場に2号マシニング・センターを導入。
1994(平成6)年 本社工場にNC旋盤(TF-20)、門型マシニング・センターを導入。
1995(平成7)年 本社工場に2,500トン自動鍛造プレス(14号ライン)を増設。NC旋盤を導入。
1997(平成9)年 本社工場にM3(NC機械工場)を建設。
2001(平成13)年 本社工場に3,800トン自動鍛造プレス(15号ライン)、450トンビレットシャーを増設。
ISO9001:1994認証取得。
2003(平成15)年 ISO9001:2000認証取得。
M3工場にHUB加工ライン(4ライン)を導入。
ポーランドに「Yagi Poland Factory(YPF)」を創立。
2007(平成19)年 M2工場にHUB加工ライン(2ライン)を導入。ISO14001 : 2000認証取得。
2008(平成20)年 中国に「恩斯克八木精密鍛造(張家港)有限公司(NYF)」を創立。
2010(平成22)年 F4工場に4,000トン自動鍛造プレス(16号ライン)を増設。
2011(平成23)年 大型ローリングミル、並びに油圧プレスを導入。
2014(平成26)年 3月1日、創業100周年を迎える。
2018(平成30)年 恩斯克八木精密鍛造(張家港)有限公司 合弁解消

STORY

八木工業の歩み

1914 創業期

高崎に農機具製造の会社誕生
高崎に農機具製造の会社誕生
創業者である八木富次郎は、1897(明治30)年5月17日、高崎市上小塙町(旧群馬郡六郷村)に生まれた。1914(大正3)年3月、大橋町23番地に「八木農機具製作所」を創立。この場所は、現在のJR北高崎駅の隣接地であった。1884(明治17)年5月、上野駅から高崎駅間が開通し、同年10月には横川駅まで延伸。翌年10月には、高崎駅からわずか2.4kmという近距離に飯塚停車場(大正8年に北高崎駅と改称)ができた。これは、三国街道と交わる場所で乗客以外に荷物の集散が予想されていたからで、事実、駅の北には大きな倉庫も存在していた。八木富次郎が駅に最も近い場所に製作所を設けたのも、資材や製品の輸送に便を予想してのことであった。

1946 再興期

焼土から立ち上がり、ヒット商品を生む
焼土から立ち上がり、ヒット商品を生む
戦後間もない1946(昭和21)年、八木富次郎は社名を「八木工業舎」に変更し、再興に着手。農機具製造と八木式燻炭機の製造・販売を始めた。1949(昭和24)年、北高崎に近い大橋町71番地に工場を移し、翌1950(昭和25)年、並榎町62番地に鋳造工場を増設。1956(昭和31)年には、本社もこの地へと移転した。

1960 革新期

並榎町から下小鳥町へ
並榎町から下小鳥町へ
1960(昭和35)年、下小鳥町1060番地に第二工場を新設するとともに、翌1961(昭和36)年3月には組織を変更して資本金500万円の株式会社となり、社名を「八木工業株式会社」に変更。八木昭が社長に就任した。日本精工(NSK)との取引が始まったのはこの時からであり、社業は激変期を迎える。1963(昭和38)年には、並榎町から下小鳥町へ本社を移転した。

1961 発展期

鍛造業進出で、発展の萌芽を切り開く
鍛造業進出で、発展の萌芽を切り開く
1961(昭和36)年は、八木工業の歴史において特別な意味を持つ記念すべき年となった。この年、日本精工との取引が始まり、100周年へと続く繁栄の基礎が築かれた。この頃、八木昭が米国を視察。一家に1台のマイカー事情を目の当たりにし、自動車産業に連なる分野の仕事に活路を見出した。日本精工との取引は、ベアリング加工から始まった。ベアリング(軸受)は当時、1台の自動車に30〜50個ほども使われる重要な部品であり、自動車が一般大衆まで普及すれば、仕事は爆発的に増える可能性があった。

1968 躍進期

倉賀野移転、躍進の時代
倉賀野移転、躍進の時代
1968(昭和43)年、運良く倉賀野大道南工業団地に42,200㎡に及ぶ広大な敷地(高崎市倉賀野町3121番地)を確保し、本社および工場を移転した。当時の下小鳥工場は、すでに整備を増設する余地もなく、これ以上、事業を拡大できる可能性は限られていた。広大な敷地を確保できる倉賀野に移転が決まったことは、八木工業にとってエポックメイキングとなった。今日に至る成長の第1の起点が日本精工との取引開始だとすれば、鍛造業への取り組みが第2ステップ、そして倉賀野移転が第3にして最大のキーポイントだった。

1975 伸展期

長期化する不況と、質的向上を実現した時代
長期化する不況と、質的向上を実現した時代
鍛造業界は、昭和30年代においては欧米先進諸国の進んだ技術を盛んに導入する時期だったが、昭和40年代に入るとモータリゼーションを支える量産体制を構築し、西ドイツを抜いて世界2位の規模へと拡大した。こうした量産時代を経て、昭和50年代には技術面でも世界のトップレベルに並んだ。1975(昭和50)年には、中小企業近代化審議会の「鍛工品製造業における技術開発のあり方に関する報告」において、公害防止、省資源・省エネルギー、省人化などに関する改善が提唱され、生産と環境の調和への取り組みが重視される時代となった。1985(昭和60)年以降は、質・量・価格におけるグローバル競争が起こり、技術の複合化への挑戦、コンピュータ活用によるコストダウンへの取り組みが急速に進んだ。この時代には、精密鍛造や歯型鍛造などのように、削らず熱を加えず複雑な部品を最終形状に成形できるネットシェイプ鍛造への取り組みも開始。こうした技術の進展を後押しするように、グローバル化の加速が始まった。

2003 飛躍期

グローバル展開の時代
グローバル展開の時代
2003(平成15)年、海外への現地工場設立を決断。ポーランドのジャルフ市に40,000㎡の土地を確保し、Yagi Poland Factory(YPF)をスタートさせた。2008(平成20)年1月には日本精工との合弁で、中国・張家港に恩斯克八木精密鍛造(張家港)有限公司(NYF)を設立。2010(平成22)年には、当社最大の4,000tプレス、二次成形である大型ローリング機を導入。機械加工においても2台の高周波焼入れ機を導入し、付加価値を高めた機械加工製品の製造を開始した。